ポール・A・ウィッケンス著『否定されたキリスト』 否定されたキリスト
現代カトリック教会が抱える諸問題の起源
ポール・A・ウィッケンス 著
『フマネ・ヴィテ』研究会 成相明人 訳
原著 Christ Denied
Origin of the Present Day Problems in the Catholic Church
著者 Rev. Paul A. Wickens
訳者からの一言 ― 筆者ウィッケンス神父は超保守主義者として知られています。例えば「教会の外に救いなし」ということは真理ではありますが、彼が支持するフィーニー神父はこれを文字通りに解釈して、1949年4月18日ボストン教区長クッシング枢機卿から聖職停止、同年8月8日バチカンからも注意を受け、1953年には破門されています。皮肉なことにフィーニー神父の墓標には「教会の外に救いなし」と刻まれてあります。訳者はウィッケンス神父の超保守主義に同調するわけではありません。だれが書いたかでなく、何が書かれてあるかに注目した上で皆さんに本論を紹介します。大筋としては日本の教会にとって非常に大事な文献です。 成相明人
導入
「一致」と「共同体」は進歩主義者たちにお気に入りの言葉です。神の計画によればわたしたち人間は言葉の意味を大事にする理性を備えているわけですから、それが一体どのような「一致」と「共同体」であるか考えてみることが必要でしょう。何しろ、泥棒とか俗世的ヒューマニストも、「一致」とか「共同体」とか言われる仲間意識で結ばれていることがしばしばあるわけですから。
ところが、キリストと一致するはずの共同体、教会との一致の中に、三位一体、実体変化のようなある種の教義を大事にせず、また教皇の首位権を余計な重荷と見なす傾向が見られるのはどういうことでしょう? そういうことがあれば、キリストと教会を中心にする共同体はもう存在していません。ペトロのいるところに教会がある、という格言を作った初代キリスト教徒はそれをよく理解していました。
御父である神の下に、この世におけるイエス・キリストの代理者が享有する権威下にあるローマ・カトリック教会だけが、救いにつながる唯一そして本物の共同体です。
この一致からわたしたちを引き離す者は、聖書が警告する偽りの共同体を作ろうとする偽りの教師であり、わたしたちは勇気を出してこのようなたくらみを告発しなければなりません。
偽りの共同体を作り、カトリック教会に分裂をもたらす計画の首謀者が悪魔自身であることは疑いもない事実です。堕落した天使であり、高度の知性を備える悪魔はイエス・キリストの教会を打ち負かそうとして、高度に組織化された終わることない計画の首謀者です。多くの人間が、悪魔の道具、時としては意識的代行者、または無意識的協力者になります。個人にどれほどの責任があるかは最終的に神だけがご存じです。
永遠の真理を否定し、真理をゆがめ、信者を混乱させた二十世紀のこのような運動で目立つのは二人の人物です。平均的信徒、その限りでは平均的司祭とか修道者も、タイヤール・ド・シャルダンとカール・ラーナーについてそれほど深くは知りません。普通、二人の名前は時々新鮮なカトリック知識人として、いわゆる進歩主義者たちが口にします。しかし、実際に彼らの著作を研究し、彼らの思想を分析した人たちがどれほどいるかというと、これは大きな疑問であると言わねばなりません。この小冊子のねらいは、主にタイヤール・ド・シャルダン、カール・ラーナー両神父と、現今のカトリシズムに彼らが及ぼした影響を平均的読者に伝えることです。
神の恩寵を願いつつ、この責務を果たすに当たって著者は神である主の模範に倣うよう努力しました。福音を読むと、優しく、穏やかな方として描かれる主は、反対派をやりこめるために時として強い言葉で非難なさいますし、乱暴な行為もなさいます。「偽善者であるあなたたち」とか「まむしの子孫」なども救い主である主の口から出た言葉です。
旧約時代の数多い預言者に倣って、聖イェロニモも、強く、きつい言葉をためらいなく選択したものです。ある時などは信仰を捨てた異端者について説教壇から「あのサソリが死んでしまった今…」とまで言ったものです。
魂に対する愛徳のために、イエス・キリストの優しさと強さを適切に取り入れることを希望しつつ、著者は読者諸氏に、わたしたちの信仰に何が起きたか、そして現代、神学校や小教区で吹き荒れているこのひどい異端の発端の責任が、だれにあるかを歯に衣着せず伝えるつもりです。
ポール・A・ウィッケンス
その取り次ぎを祈りつつ神の御母に本書を捧げます。
1981年8月15日 被昇天の祝日
否定されたキリスト
一章 現代カトリック教会が抱える諸問題の起源
カルヴァリオに向かうイエスを見て涙したエルサレムの婦人たちのように、傷ついた教会を見て心あるカトリック信徒も泣き悲しみたくなります。
復活祭の朝、空になった墓を見たマグダラのマリアはおろおろして「だれかが主を墓から取り去りました。どこへ置いたのかわかりません」と言いましたが、1980年代の教会も正にそういう状態にあります。
ここ15年間に起こった教会内の破壊的変化はどのように、またどこから生じたのでしょうか? それはすべて実に急激に起きました。初めは不愉快という程度であったかもしれませんが、すぐにそれらの有害な変革の数々は、神秘体の生命に思いも寄らぬ衰微をもたらしました。なぜでしょうか? 荘厳な儀式が行われる教会に大勢の信者が集まり、修道院とか神学校が満員だったのはつい最近のことのように思われます。規律、道徳、キリストを通じての聖化、御聖体を皆当時は大事にしていたものです。
現代神学の間違った諸傾向になぜこれ程の勢いがついたのだろうか、どのようにしてこれらの傾向が教会生活のすべてのレベルに浸透してしまったのであろうか、と人は不思議に思います。
これらの傾向は究極的に道徳的堕落と客観的倫理規範の無視をもたらしました。これはすべて神法に反し、真正カトリシズムが明らかに衰微した原因になっています。救い主イエス・キリストが教えた真理はまるでドミノ倒しのように倒されています。
教会という城塞が攻撃されているのに、アメリカとヨーロッパの教会指導者たちは状態を改善する努力を怠っているかのように見えます。
神の助けを得て、本論で著者は、信仰喪失と道徳低下の原因が知的そして霊的には、人祖アダムとエバの現実と、さらに三位一体の人格神の拒絶にあることを証明するつもりです。これらの不信の種は、ピエール・タイヤール・ド・シャルダンと呼ばれる男の著作に含まれています。
ジョージ・タイレルとタイヤール・ド・シャルダン
1901年の夏、フランスでは神学生が神学校から法律によって強制的に退去させられ、国外で神学研究を続けることになりました。反聖職者主義的フランス政府が修道会を敵視する法律の立法化に成功したからです。しかし、最終的分析によれば、迫害者であった政府より修道会の方が教会の健康にとってはもっと危険でした。
ともかく、迫害の主な目標はイエズス会でしたから、彼らは全員国外に退去するよう求められました。行く先は当然ドーバー海峡の向こう側にある英国でした。フランス人神学生の中に混じっていたのが、司祭職を目指していた若いタイヤール・ド・シャルダンでした。
そういうわけで、ド・シャルダンと同級生たちはジャージーにあったイエズス会修道院に引っ越すことになりました。英国でこれらの若いイエズス会員たちはジョージ・タイレルという名前のアイルランド人イエズス会員に大きな影響を受けることになったのです。その影響は非常に強力なもので、当時英国にはただ一人だけイエズス会員がいて、その名前はジョージ・タイレルであったと言っても誇張でないほどです。
最近タイレルに興味を持ち始めた著者は、カトリック教会における現在の困難を引き起こす原因になったとして非難したい過去のすべての人たちの代わりに、タイレルだけに全責任を負わせたくなるほどです。
近代主義者タイレルの影響
当時、つまり今世紀の始めごろ、恐るべき異端が諸神学校に広がりつつありました。自他共に認める主導者がイエズス会のジョージ・タイレル神父でした。彼は引っ張りだこで、非常にしばしばオックスフォード大学でも講座を受け持っており、そのほかの大学でも影響力の大きい教職に就いていました。イエズス会の月刊誌編集にもかかわり、自ら百近くの論文を寄稿しています。内容は飽きることもなく霊性と内的生活に関する自分の思い込みというものでした。そこまでは許せるとしても、彼には一つ大きな問題がありました。おそらく彼は神を信じていませんでした。自分が描いた神の戯画なら信じていたいたかもしれませせん。しかし、「人が内的にも外的にも礼拝することを義務づけられる啓示された三位一体の神、至� ��の存在、自由意志と知性を備えた独立した存在」である神を信じていたとは言えません。キリストが処女から生まれたこと、キリストが復活したことを彼が信じていなかったことに間違いはありません。
ほとんどの異端と同じく、彼も自分の思いつきを満足させるような霊性を発展させ、機会あるごとに飽きることなくそれを推奨したものです。そのための黙想会指導とか研修会で各地に旅行したり、雑誌に寄稿したり、著書を出版したりしていました。このような努力の目的はもちろん新開発の霊性の推進、つまり非常にキリスト教的であるためにはどうすればいいかの伝授でした。表面的に見ると、真理と誤謬が巧妙な言葉遣いで混合された彼の運動は、カトリック信者をキリストへの新鮮でさらに純粋な愛に招いているようにも見えたものです。しかし、タイレル自身と彼に近かった人たちにとって、カトリシズムの基盤は神話でしかありませんでした。もちろん彼にしてみれば、暴露されたこのような神話は当然放棄されるべ� ��でした。
★彼のアメリカ版とでも言える進歩主義者リチャード・P・マックブライエン神父は、最近、二巻からなる「カトリシズム」(ウィンストンプレス、29ドル95セント)を発行していますが、彼は書中でタイレルを弁護し、1907年彼を異端として譴責した教皇ピオ十世を非難しています。それだけではなく、彼はタイレルをこともあろうに十字架の聖ヨハネ、聖ペトロ・カニジウス、聖ロベルト・ベラルミヌスと同列に取り扱っています。
歴史的事実に徹すれば、カトリック・エンサイクロペディアにはタイレル神父が最終的には、イエズス会の長上から自分の異端的記事を公に撤回するよう求められたことが記載されています。タイレルがそれを拒否したので、彼は聖職停止の処分を受けた挙げ句イエズス会から退会処分を受けました。
その後、彼は自分を受け容れる司教を探しましたが、成功しませんでした。それでも彼は正統信仰に反する記事を書き続けたのです。教皇ピオ十世による近代主義の断罪(1907年)を激しく非難し続けたために、彼は名指しで破門され、その赦免は聖座に留保されることになりました。
その後何年かたって彼はブライト氏病で死にましたが、最後まで悔い改めることがなかったために教会墓地への埋葬を拒否されています。
二章 そのほかにもあった初期の影響
一世紀から、教会には懐疑主義の小さなグループが常に存在していました。堕落した本性、生活のおごり、肉欲は絶えずすべての人に影響を及ぼします。信徒であってもその影響から免除されるわけではありません。
時代を下がると、この懐疑思想は十八世紀のドイツで盛んになり、★後に国境を越えてフランスにも広がりました。十九世紀末までにそれはフランスでも広く受け容れられるようになり、そこでの主な指導者はイエズス会のアンリ・ブレモン神父でした。上述のジョージ・タイレル神父はブレモンの親友であり、その結果、その近代主義的・進歩主義的原理に大きく影響されることになります。
★ルーテル教徒であったエンマヌエル・カントは、1700年代に多かった懐疑主義者の典型です。彼の理論は間違った前提に基づいていました。それらの前提の一つは人間の知識が確かなものではあり得ないということでした。次に、彼らは(いわゆる)真理が常に変化すると考えるました。最後に、理性的霊魂の部品である理性と自由意志よりも本能と情欲を重んじるべきであると主張したのです。
ここで著者が論じたいのは、タイレルを堕落させた著名な懐疑主義者アンリ・ブレモンは、タイヤール・ド・シャルダンが学んだ高等学校、コレージュ・ド・モングルで教えていたという事実です。当時14歳だったド・シャルダンはここでブレモンに教わり、その影響を受けています。ですから読者は彼が若年時からとんでもない誤謬思想にさらされていたことを理解できるでしょう。
わき道になりますが、ド・シャルダンが1955年に死亡したとき、教会の断罪を受けていた彼の著作は非合法的に印刷・出版され、広く頒布されたものです。出版者はタイヤールがその「独創的で革命的」思想を、第一次世界大戦中つまり彼が中国に滞在していた期間に発展させたような印象を与えるよう細心の注意を払ったものです。しかしこれはナンセンスでしかありません。実際のところ、ド・シャルダンの思想に新しいものは何一つありません。彼の思想は高校時代と英国で神学校に入っていた時代に習ったことの受け売りです。彼が主張する異端思想は、彼の少年時代にすでに流行しており、その発端は更に時代をさかのぼります。
著者の主張を証明するために言いますが、1893年とド・シャルダンが神学校に入った1899年の間に、教皇は基本的真理と聖書自体に関する懐疑主義を断罪する四つの回勅を発することを余儀なくされました。1907年7月3日、聖座はあの有名な教令『ラメンタビリ』を発表しました。1907年9月8日、教皇ピオ十世はその回勅『パッシェンディ』で近代主義★がもたらす害毒に関してカトリック世界に警告を発しました。
★近代主義の簡単な定義を知っておくと便利です。それはまず、カトリックの宗教、信仰、道徳が現代化されなければならないと主張します。そして、啓示されたすべての教義は疑ってかかります。つまり懐疑主義です。そして多くの教義を結局は否定してしまいます。近代主義がもたらすのは恩寵の喪失であり、そこから懐疑はますますつのり、それがさらに恩寵を失わせる結果になります。
この運動の中心はイエズス会のアンリ・ブレモン神父であり、その弟子が同じくイエズス会のジョージ・タイレル神父で、同会のタイヤール・ド・シャルダン神父がさらにその衣鉢を継いでいるのです。タイレルと同じくブレモンも自分の近代主義を広めるに当たっては決して疲れを知りませんでした。フランスの(いわゆる)知識層はその種の会合があると必ずと言っていいほどブレモンを講師として招いたものです。ですから彼はほとんどいつでも「列車に乗って」、ヨーロッパ中の懐疑主義者たちに講演するために旅行していました。1899年、アンリ・ブレモンはフランスのイエズス会誌エチュードの編集者に任命されました。この任命はまるで大地震のようなものでした。正統カトリック信者であればその影響が極めて重大 であると感じたものです。エチュード誌提供の公の発表の場を得て、ブレモンの哲学はすぐにイエズス会全体に及ぶことになりました。
しかし、ブレモンにとっては残念なことでしたが、彼の近代主義標榜は多くの人々の反発を買い、彼はイエズス会から退会することを求められます。最終的に彼は教区の司祭になりましたが、残念なことにその精神はいろいろな意味で同会に残ってしまいました。
ブレモンのエチュード編集を引き継いだのは、レオンス・ド・グランメゾンというイエズス会員でしたが、彼はもっと賢く、用心深い性格の人でした。しかし、その神学は前任者のそれと全く同じでした。彼は用心深くローマとの対決を避け、その哲学と神学の誤謬をいかにももっともらしく覆い隠していました。彼こそ自分はカトリックであると言いながら基本的教義のどの部分でも選択的に信じる(例えばカール・ラーナー、ハンス・キュング、エイヴリー・ダレス、リチャード・マックブライエン神父などのような)現代自由主義者の原型であったと言えるかもしれません。
ジョージ・タイレルと同じく、ド・グランメゾンも英国イエズス会神学校で教えていました。実に、必須科目を履修したタイヤール・ド・シャルダンやその他多感な年代にあった神学生たちは近代主義神学の二連発を食らったようなものでした。
タイヤール・ド・シャルダンの履歴
ド・シャルダンは神学生時代に多くの書簡を書いていますが、司祭生活の初期、文章を書くことが自分の好みにあっていることを発見します。ド・グランメゾンが編集人を降りたころから、彼はエチュードに記事を送り始めます。その後三十数年の間、彼は自分の思想を同誌で発表し続けました。正統信仰を守る番犬である教会権威者たちに神学的逸脱を指摘されないよう、彼はその内容をあいまいにするためにある程度の注意を怠りませんでした。合計すると彼の著作はかなりの量になり、1930年代半ばまでに彼は近代主義を広める本業では有力な指導者になっていました。
タイヤールの戦略・中国訪問
有名になる前のド・シャルダンは、残念なことに十分な聴衆を自分自身もしくは自分の思想に引きつけるだけの魅力に欠けていました。人々の注目を得るための行動を思い巡らしていた彼がそこで思いついたのが中国訪問です。タイヤールはもし自分が中国にしばらくの間滞在して、何か異国情緒のあることでもすれば、自分が高名な旅行家としての名声を得ることになると考えたものです。そうすれば、人々は彼を尊敬し、彼の主張にもっと耳を傾けることになり、彼のメッセージも伝わりやすくなろうというものです。
早く平和が戻りますように・・・。
2011/3/23(水) 午後 9:32