幼子、乳飲み子の口によって
本日私たちがご一緒に読み、み言葉に聞こうとしている聖書の箇所は、ルカによる福音書第18章15節以下ですが、共に読まれる旧約聖書の箇所として、詩編第8編を選びました。ここを選んだのは、その2節の終わりから3節にかけてのゆえです。ルカ福音書の本日の箇所は、主イエスに祝福してもらおうとして乳飲み子を連れて来た親たちを弟子たちが叱ったのに対して、主イエスは「子供たちをわたしのところに来させなさい。神の国はこのような者たちのものである」とおっしゃったという所です。子供たちこそ、神の国に相応しい、と主イエスは言われたのです。詩編8編の2、3節も、神様の栄光をほめたたえるのに相応しいのは「幼子、乳飲み子の口」だと語っています。そういう意味� �、ここは本日共に読まれるのに相応しいと思ったのです。
地震において、詩編8編から考えたこと
ところが、金曜日に東北地方太平洋沖地震が発生しました。観測史上最大のマグチュード8.8の地震と大津波によってすさまじい被害が生じており、既に1000人以上の人の命が失われています。未曾有の大災害のただ中に、今私たちは置かれているのです。この体験の中で、詩編第8編を読み直してみますと、この箇所を選んだ時に考えたのとは全く別の意味というか、今私たちが深く考えなければならないことが示されているように思います。この詩は、全地に満ちている主なる神様の御名をほめたたえる歌です。天も神様の指の業であり、月も星も神様が配置なさったものだと歌われています。つまり大自然を造り支配して おられる神様の威光をたたえているのです。そして、そのように神様のみ業をほめたたえつつ、その神様が人間を顧みて下さり、「神に僅かに劣るものとして」造って下さり、「御手によって造られたものをすべて治めるようにその足もとに(つまり人間の足もとに)置かれました」と歌っています。神様の威光をたたえつつ、その神様の下で、被造物全体を治める者として人間が造られていることを驚きをもって歌っているのです。人間は、神様が造って下さった地の上で、様々な被造物を治め、開発し、作り変えて、いろいろな産業を起し、経済的文化的な営み行い、生活を築いています。しかしこのたびの地震と津波は、神がお造りになった自然の猛威がそれらを一瞬の内にあとかたもなく飲み込み、押し流してしまうことを見せつ� ��ました。私たちはこのような出来事を見るにつけ、「神様はなぜこのようなことをなさるのか」と感じ、神の恵みを疑ったりします。けれどもその前に考えなければならないことがあるのではないでしょうか。私たち人間の営みが、この詩が歌っているような、大自然を造り支配しておられる神様の威光をほめたたえ、その神様のご支配、栄光と威光を畏れかしこむ思いを忘れ、思い上がりに陥っているのではないか、ということです。この詩は、神の威光を語ると共に、神に僅かに劣るものとして人が造られたと語っています。それは一方で、他の被造物を治める者としての人間の素晴らしさ、栄光を歌っていますが、しかし同時に人間は神に劣るものであること、神こそが天地を造り支配しておられる方であることをも示しています� �神の威光を認め、ほめたたえ、賛美することの中でこそ、人間もまた栄光ある存在であることができることを語っているのです。地震のニュースを見ながら詩編第8編を読み、このようなことを感じた次第です。
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乳飲み子を連れて来た人々
さて、ルカ福音書の本日の箇所を見て行きたいと思います。ここと同じような話は、マタイ福音書では19章、マルコでは10章にあります。ルカ福音書はマルコ福音書を参照しつつ書かれたと考えられています。ルカはここで、マルコ10章13〜16節の記述をほとんどそのまま用いているのです。けれどもいくつかの点で、マルコとは違っている所があります。そこに、ルカがこの話によって語ろうとしていることを知るヒントがあると言えるでしょう。その一つは15節の、「人々は乳飲み子までも連れて来た」という所です。マルコでは「人々が子供たちを連れて来た」となっています。ルカは「子供」 という言葉を、「乳飲み子」に変えたのです。16節の「子供たちをわたしのところに来させなさい」というところと、17節の「子供のように神の国を受け入れる人でなければ」というところにおいては、マルコの記述の通り「子供」になっています。15節だけが「乳飲み子」なのです。「子供」というのは12歳ぐらいまでのかなり幅広い意味を持つ言葉ですが、「乳飲み子」は文字通り赤ちゃんを意味しています。ルカはここで丁寧に、「乳飲み子までも」と言っています。主イエスのもとに子供たちを連れて来る人々がたが、その中には乳飲み子もいた、ということをルカはわざわざここで語っているのです。乳飲み子を連れて来たのは当然その親たちですが、彼らは「イエスに触れていただくために」自分たちの赤ん坊を連れ� ��来たのです。触れていただく、というのは、手を置いて祝福してもらう、ということです。生まれた子供が健康で元気に育ち、幸福になるようにというのはいつの時代にも親の共通する願いです。病人を癒したり悪霊を追い出す力を持っている主イエスに祝福してもらって、子供たちの健やかな成長を願うために彼らは乳飲み子を連れて来たのです。
乳飲み子たちを呼び寄せる主イエス
しかし主イエスの弟子たちはこの親たちを叱りました。弟子たちがどのような思いから彼らを叱ったのかは、いろいろな想像が可能です。子供を祝福してもらおうとするこの親たちは、子供の幸せのために何となくご利益がありそうだから来ているのであって、主イエスに従って行こうとはしていません。従うことなしに祝福だけをいただこ� �という彼らの思いを弟子たちはけしからんと思ったのかもしれません。あるいは、大人の相手をするだけでも忙しくて大変な主イエスをこれ以上煩わせてはならない、ということかもしれません。さらには、子供たちが騒いだり、特に乳飲み子がおっぱいを求めて泣いたりすると、主イエスのお話に耳を傾けようとしている人々の妨げになる、ということかもしれません。いずれにせよ、弟子たちはこの親たちを叱ったのです。
ところが主イエスの思いは弟子たちとは反対でした。マルコ福音書ではここは「しかし、イエスはこれを見て憤り」となっています。子供たちを連れて来た親たちを叱った弟子たちに対して主イエスは憤られた、お怒りになったのです。ルカはそれを、「イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて」と変えていま� ��。マルコは主イエスの怒りを語っているのに対して、ルカは乳飲み子たちをご自分のもとに呼び寄せ、お招きになる主イエスのお姿を描いているのです。主イエスは、「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」とおっしゃいました。「来させなさい」という所は、直訳すると「来ることを許しなさい」となります。それは「妨げてはならない」と同じことです。子供たちが私の所に来ることを、妨げずに許せ、と主イエスはおっしゃったのです。主イエスは、乳飲み子をも含めた子供たちをご自分のもとへと招いておられ、呼び寄せておられます。それを妨げ、子供たちが来るのを邪魔することは、主イエスに敵対することになるのです。
神の国に入るのは誰か
私たちがここから読み取るべきことは、主イエスは子供が好きだった、子供に優しかった、ということではありません。その次の「神の国はこのような者たちのものである」というみ言葉が、この箇所の中心主題へと私たちを一挙に引き込みます。本日の箇所の主題は、子供たちに対する主イエスの愛ではなくて、神の国は誰のものか、ということなのです。そのことは17節からも分かります。「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」。ここでも主イエスは、神の国に入ることができる人は誰か、を語っておられるのです。神の国とは、神様のご支配という意味です。神様のご支配が確立する� �と、それが「神の国が来る」ということであり、その時、神様を信じ従う神の民の救いが完成するのです。「神の国はこのような者たちのものである」というのは、この神様による救いがこのような者たちにこそ与えられるということであり、「このような人でなければ神の国に入ることはできない」というのは、このような人でなければ神様の救いにあずかることができない、ということです。神の国、神様による救いにあずかることができるのはどのような人か、ということを、主イエスはここで語っておられるのです。
神の国の「既に」と「未だ」
「神の国」が主題であるということは、本日の箇所も17章20節以下の話の続きであることを意味しています。17章20節で、ファリサイ派の人々が主イエスに、「神の 国はいつ来るのか」と尋ねました。主イエスはそれに答えて、「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」とおっしゃいました。神の国、神様のご支配、すなわち救いは、既にあなたがたの間に実現している、それは、主イエス・キリストがこの世に来られたことによってです。主イエスのご生涯、とりわけ十字架の死と復活によって、神の国は私たちの間に既に実現しているのです。主イエスを信じ従っている弟子たち、信仰者は、神の国、神様の恵みのご支配に既にあずかっているのです。しかしそれに続いて主イエスは弟子たちに、「あなたがたが、人の子の日を一日でも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう」とお� ��しゃいました。「人の子の日」が「神の国の実現の日」です。それがまだ来ていない、神の国が目に見える現実とはなっていない、そういう時を弟子たちは、信仰者は歩まなければならないのです。それが私たちの今の現実です。主イエスによって到来した神の国は、未だ完成していない、誰の目にも明らかな現実とはなっていない、信じるしかない事柄なのです。それが完成するのは、「人の子の日」即ち主イエス・キリストがもう一度来られ、そのご支配が目に見える仕方で完成する、世の終わりの日です。私たちの信仰の歩みは、主イエスによって既に実現している神の国を信じて、その信仰に支えられて、それが未だ目に見える現実とはなっていないこの世界の中で、その完成を待ち望みつつ、つまり神の国に入ることを願い求� �つつ、忍耐と希望に生きることなのです。本日の箇所は、この神の国はどのような者のものであり、どのような人こそがそこに入ることができるのか、を語っているのです。
子供のような者
「神の国はこのような者たちのものである」。その「このような者たち」とは、子供たちのことです。子供たちこそ、神の国に入るのに相応しい者だと主イエスはおっしゃったのです。それは勿論、子供しか入れない、大人はだめ、ということではありません。「子供のような」者こそがそれに相応しいということです。では、「子供のよう」とはどういうことなのでしょうか。「子供のように素直で純真な、汚れを知らない人」ということでしょうか。そうではありません。そもそも、子供が素直で純真で汚れを知らない、などということを聖書は語っていません。アダムの罪以来、人間は子供の時から神様に背き逆らい、自己中心的で、神様をも隣人をも愛するより� �憎み傷つける者となっているのです。ですから主イエスがここで「子供のような者」と言っておられるのは、「子供のように罪のない純真な者」ということではありません。17節の「子供のように神の国を受け入れる人」という言葉こそがその意味を示しています。「子供のよう」とは、「神の国を受け入れる」ということなのです。
神の国を受け入れる
神の国を受け入れる、それはつまり主イエスによって既に実現している神様の恵みのご支配、救いのみ業を信じて受け入れるということです。目に見える現実においては、神の国は「ここにある」「あそこにある」とは言えない、神様の恵みのご支配が完成する「人の子の日」を一目見たいと願っても見ることができないのがこの世です。このたびの地震に限らず、私たち は様々な事において、神の恵みのご支配などどこにあるのか、と思います。そういう目に見える現実の中で、しかし主イエスの十字架と復活によって神様の救いのみ業が既に行われ、恵みのご支配が実現しているのだと告げる福音を信じて受け入れること、それが神の国を受け入れることです。大人はそこでいろいろと理屈を言って、納得できる説明を求めます。このような現実のどこに神のご支配があると言えるのか、それが神のご支配であるというどんな証拠があるのか、などと考えるのです。しかし子供は、親や教師の言葉を信頼して受け入れる、親が言うんだから、先生が言うんだから間違いはない、という素朴な信頼に生きているのです。そのような素朴な信頼をもって、主イエスによって神の国が実現しているという福音の言� ��を信じて受け入れる者こそが、神の国の恵みにあずかることができるし、その完成を待ち望みつつ生きることができるし、それゆえに世の終わりに神の国に入ることができる。「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」というみ言葉はそのように理解することができるでしょう。
主イエスの招きによって
けれども、それだけでは済まないのがこのルカによる福音書です。ルカが、マルコの記述を基本的に用いつつ、15節の「子供」を「乳飲み子」に変えたことの意味がここで問題になります。そのことによって今申しました理解にはある修正が必要になってきます。つまり今は、子供は親や教師への素朴な信頼の中でその言葉を受け入れる、「子供のように」とはそういう意味だと申しました。しかし「乳飲み子」となると話は違ってきます。親や教師への素朴な信頼というのは、既にある程度成長した子供の話です。乳飲み子はそのような信頼以前の段階です。赤ちゃんは、お腹がすけば泣き、与えられたおっぱいを飲み、お腹がいっぱいになったら寝る、と� �う存在です。信頼するとか受け入れるとかではなく、ただ与えられたものをいただくことによって生きているのです。主イエスはそのような乳飲み子を見つめつつ、「神の国はこのような者たちのものである」とおっしゃったのです。つまり私たちが神の国に入るのは、私たちが神様を信頼してそのみ言葉を受け入れることによってですらなく、根本的には、神様の恵みによって神の国を与えられるのです。私たちは神様の前で、母親のおっぱいを求める赤ん坊のように、神様の恵みのご支配を求め、そして神様の愛によってそれを与えられるのです。母親が赤ん坊におっぱいを与えるのは、赤ん坊がこれこれのことをしたら、などという条件付きのことではありません。乳飲み子を主イエスのところに連れて来た親たちの思いがそうであ るように、ただ子供に幸せになってほしい、元気に育っていってほしい、という思いによって、できるだけよいものを子供に与えようとするのです。同じように神様も、ご自分の民である人々に、その恵みのご支配を、神の国を、進んで与えようとしておられるのです。神の国へと私たちを招いて下さっているのです。ルカが、親たちを叱った弟子たちに主イエスが憤ったというマルコの記述を、「イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて」と変えたのは、弟子たちへの憤りよりも、乳飲み子たちを招き、呼び寄せて下さる主イエスの恵みをこそ描こうとしたからでしょう。私たちは、この主イエスの招きによって、主イエスが呼び寄せて下さることによって、神の国に入り、神様の恵みのご支配の下で生きていくのです。
十字架の死によ る招き
乳飲み子たちがそうであるように私たちも、神様の恵みや祝福をきちんと弁え、自覚することができていない者です。また、主イエスのみ業の手助けをすることができるどころか、むしろそれを妨げてしまうような、迷惑をかけてしまうような罪深い者です。だから普通に考えれば、弟子たちがこの親たちを叱ったように、おまえなど迷惑だ、邪魔だ、お呼びでない、と言われても当然なのです。しかし主イエスは、そのような、何もわきまえていない、迷惑をかけるばかりの罪人である私たちを呼び寄せ、招いて下さったのです。そのために、主イエスは私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さったのです。主イエスの十字架の苦しみと死、そして復活こそ、罪人である私たちへの招きの印です。先週の水� �日からレント、主イエスの御苦しみと死を覚える時に入りました。私たちは特にこの時、主の十字架の苦しみと死、そしてそれを経て実現した復活を思いながら歩みます。そのことによって、神様が独り子主イエスの苦しみと死とによって私たちを神の国へと招き、呼び寄せて下さっていることを確かに確認させられていくのです。
長老、執事の任職
このことは、本日この礼拝において行われる、新たに選出された長老と執事の任職ともつながります。初めて長老や執事に選出された人は、なぜ自分のような者が、と思うでしょう。自分など何も分かっていない、迷惑をかけるだけではないか、お呼びでないのではないか、と思うのです。そしてそれはその通りです。もしも、自分は長老として、執事として、十分やって行くことができる力がある、能力も知識もある、などと思っている人がいたとしたら、そういう人こそ、お呼びでない、深刻な迷惑を教会に及ぼす人です。大切なことは、罪人であり、力もなく欠けの多い、知らないことの多いこの自分が、主イエス・キリストによって赦され、招かれ、呼び寄せ� �れて、今この務めを与えられようとしている、という思いです。教会の頭である主イエスは、このような思いで、おそれおののきつつ、しかし自分を招き、呼び寄せて下さる神様に従って行こうとする者をこそ用いて下さり、神の国を、神様の恵みのご支配をこの世に表し、示して下さるのです。
神の国を受け入れる者
主イエスは乳飲み子を呼び寄せて、「神の国はこのような者たちのものである」と言って下さいました。それは私たち一人一人を、神様の恵みのご支配のもとで生きることへと招いて下さっている恵みのみ言葉です。この招きの中で私たちは、子供のように神の国を受け入れる者とされるのです。先週の礼拝において読んだ18章9節以下のファリサイ派の人と徴税人のたとえも、それと同じことを語っていた と言うことができるでしょう。あのたとえにおいては、「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と祈ったあの徴税人こそ、神様の招きによって神の国に入れられた人です。彼は、人々の目から見たらとうてい赦されようがない罪をかかえていながら、神様に赦しを願い求めたのです。それはお腹の空いた乳飲み子が母親のお乳をもとめて、周囲の人々のことなど全く気にすることなく大声で泣いているような姿です。神様はこの祈りに応えて、彼を義として下さいました。それは、神様がもともと恵みのみ心によって罪人である彼を招き、呼び寄せて下さっているから実現したことです。「子供のように神の国を受け入れる人」というのは、あの徴税人のように、深い罪をかかえ、とうてい神様のみ前に出ることなどできない者であり� ��がら、「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と祈る人なのです。そのように心から祈るということは、その罪の赦しを信じているということです。神の国、神様のご支配とは、この罪の赦しの恵みによるご支配です。その神の国が、主イエス・キリストによって、その十字架の苦しみと死とによって既にもたらされているのです。私たちは今、未曾有の大災害に直面して心騒いでいます。自分の肉親、知人の安否がなお分からずに不安を覚えている人もいるでしょう。また先ほども触れたように、このことによって信仰の動揺を覚えている人もいるでしょう。そのような中で私たちは、神様の独り子主イエス・キリストの苦しみと十字架の死によってもたらされ、目に見えない仕方で既に実現している神の国、神様の恵みのご支配� �信じ受け入れ、そこに入れていただくことを心から願い求めつつ歩みたいのです。
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